明治時代には「ゲーム脳の恐怖」ならぬ「野球脳の恐怖」が存在した!
そうそう。
そう言えば最近ネットで見て知ったんだけど、なんでも最近またもや、
あの一時話題になった「ゲーム脳」みたいな話が世間で話題になってるんだって?
……って、その「ゲーム脳」ってのは有名なんで既に知ってる人も多いと思うけど、
それは以前に森昭雄という、ゲームに偏見を持つインチキ学者が、
『ゲーム脳の恐怖』という本で主張していたもので、まあ端的に言うならば、
「テレビゲームをやっていると脳の活動が低下し、脳が破壊されてしまう」という、
キバヤシばりのトンデモ理論でして、その本の中でゲームにより脳が破壊された状態を「ゲーム脳」って呼んでたんですよね。
そしてその「ゲーム脳」に近い話が、それとは別の作家の別の本でも出てきたって話なんですよ。
まあとにかく論より証拠で、以下のリンクを見ていただければ詳細は分かると思います。
『脳内汚染』 第2の「ゲーム脳」登場?
http://www.igda.jp/modules/news/article.php?storyid=716
つーわけで、 まさに第2の「ゲーム脳」の登場ですよ。
もーまったく、最近「ゲーム脳」があまり話題に登らなくなったと思った矢先にこの展開。
ホントにいいかげんにしてもらいたいものですね。
こんないいかげんな話に洗脳されるなんて、「脳内汚染はそっちの方だろ!」って思っちまいますよー。
……とか言いつつも、しかしね。
そう……、俺もホントこんな話はいいかげんにしてもらいたいなあと思っていながらも、でもその一方で「こう言われるのもしょうがないのかもなあ……」なんて思っていたりもするんですよね。
そう、こんなのは止めてもらいたいその一方で、俺もこう言われるのに納得をしている面もあったりするわけなんですよね。
……ってそうは言っても、別に相手の言うことが正しいと思ってるわけじゃありませんぜ。
そうではなくって、まあなんて言うんですかね。
まあつまりは、やはりこういう風にゲームが「いわれのない非難」をされることこそが、
「ゲーム」という新しい娯楽が世に受け入れられるための「通過儀礼」なのではないかと。
すなわち「私のシューズの中に画びょうが!」みたいなものなのではないかと。
そう思っていたりするからなんですよね。
そう、ほら、やっぱさー……、こういうのは今までもたくさんありましたから。
例えばテレビだって、あれが出た当初はテレビのせいで「一億総白痴時代」になるなんて言われてましたし。
さらにはマンガだって、かつては手塚治虫のマンガが「悪書」としてPTAに燃やされたりしましたからね。
もうお前らは、「焚書坑儒」かっ!って話ですよ。
でもこういった「いわれのない非難」というのはバカバカしいとは思いながらも、やはり新しい娯楽が世間に広まる過程では、どうしても避けられないものだとも俺は思ってしまうんですよね。
そう……、だってこのような頭の固い旧世代による「新しい娯楽へのいわれのない非難」というのは、人類が昔から当たり前のように繰り返してきたことじゃないですか。
そう、こんなものは、さっき例に挙げたテレビやマンガのはるかに以前から、当然のように存在していたことじゃないですかー。
と、言うのもですねえ……。
実は俺も最近になって本で読んで知ったんだけど、
そう、昭和の時代をさらにさかのぼって、日本の過去の歴史を見ていくとですねえ……。
そう、さらにはるか昔の明治の世では、
なんとあの「野球」が大人から悪く言われていたってことらしいんですよね。
そう、あの「野球」が今で言うところの「ゲーム」のごとく、悪の娯楽と言われていたってことらしいんですよ。
もうこれには、ホントに驚いたー!
……いや〜、だってさー、もうこれ驚くでしょ。
だって「野球」って言やあ、今では日本の最も代表的な国民的スポーツで、
これをやってこそ健康優良児、これをやってこそカツオ、
みたいなイメージがあるわけじゃないですか。
それこそ、ちょっと暗いイメージのある「ゲーム」や「マンガ」なんかとは、全然違うわけじゃないですか。
それなのに非難されてしまうなんて、ホント全然理解できないわけなんですよね。
……というわけで、では早速どのようにして明治の時代に野球が非難されていたのかを紹介しようかと思うわけなんですが、でー、その前にこのことを俺がどのようにして知ったのかと言うとですね、それは俺が以前に読んだ、平凡社の「戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景」(著:米沢嘉博)という本にそのことが書かれていたんですよ。
まあその本はメインの内容としては、「戦後すぐから現在までのさまざまな野球マンガの歴史を追って紹介する」というものなんですが、その本の最初の部分にですね、明治時代に日本に野球というスポーツがはじめてやってきた時の状況が書かれているんですよね。
で、その部分を読むとですねえ……、
もうその当時、いかに野球が大人から酷く言われていたかが解るわけなんですよ。
では、ちょっとその部分を引用してみましょう。
明治四三、四年頃には、「東京朝日新聞」などを中心に野球撲滅論が起こっている。「教育と野球」(野村浩一、私家版)から引くと、「野球はアメリカから来た賎戯で士君の弄ぶべきものではない。我が国には胆を練るには剣道があり柔道があり、また国技として相撲がある。どうして外来の遊戯を学ぶ必要があろうか」というのが大勢だった。五千円札に肖像が描かれている当時の一高校長新渡戸稲造は、「野球という遊戯は悪く云えば巾着切(すり)の遊戯、相手をペテンにかけよう、計画に陥れよう、塁を盗もうなど、眼を四方八方に配り、神経を鋭くしてやる遊戯である」と語っている。
……って、いきなりもう、「野球撲滅論」と来たもんだ。
もうねえ……、メチャメチャ酷く言われてるじゃん、野球。
まずいきなり「日本には剣道や柔道や相撲があるだろ!」と、
大人が大好きな「昔から日本にあるものは正しい」論を主張して、
そこからさらに、野球は相手を陥れたり盗んだりする「犯罪ゲーム」論に発展ですよ。
「あれっ?こういう感じの意見って、最近でも聞きませんでしたっけ?」みたいな。
「ゲームをやると暴力的になる」みたいな根拠のない大人の意見をよく見るけど、
そういう根拠のない批判が明治から続く日本の伝統芸能とは驚きましたわ。
つーか、明治時代に犯罪ゲームとまで言われた野球が今の世では、
「正々堂々スポーツマンシップにのっとり……」とか言ってるんだから、
世の中ホント分からんものですねえ……。
……と、しかし、ここまでの「野球撲滅論」は、まだ単なる序章。
そう、だってここまでの批判なら、あのインチキ脳科学の「ゲーム脳」に比べれば、
まだまだ常識的だといえないこともないじゃないですか。
そう、あの「ゲーム脳」のキバヤシぶりに比べれば、こっちの方がまだまともだとも思えるんですよね。
しかし明治時代の野球批判だって、負けたものではありません。
そう、今紹介した批判以外にも、いろいろな批判が当時他にもあったわけなんですが、
そんな数々の批判の一つとして「野球をやっていると頭が悪くなる」という、
これまた定番の批判の一つが野球の場合もあるわけなんですけども、
でもその「野球をやってると頭が悪くなる理由」というのがねえ……、
「野球に熱中すると勉強をしなくなるから」みたいな、
常識的なものではなかったりするんですよね。
そう、何故なら「野球をやると頭が悪くなる」というのはですねえ……、
その野球をやることで、脳科学的な面で脳に悪影響が発生するからという話なんですよー!
……って、それは一体どういうことなんだ、キバヤシーーっ!
と、皆さんも思っていることでしょうから、早速その本に書かれていた彼らの主張を引用してみることにいたしましょう。
当時の野球弊害説をいくつかあげてみよう。
「(中略)野球選手が学科の出来ぬのは、野球に熱中の余り勉強を怠るのかと思ったら、そうでなく、手が強い球を受ける為その震動が脳に伝わって、柔らかい学生の脳を刺激し、脳の作用を遅鈍ならしめる異常を呈せる」。
……という話なわけでして、そう。聞きましたか、皆さん。
そう、つまり野球をやると頭が悪くなってしまうのは、
ボールを手で受けたときの震動が脳に伝わり、それが脳を破壊してしまうからだったんだよ!
な、なんだってーーーっ!!
……って、そんなバカな話あるかっつーの!
……というわけで、皆さんお分かりでしょうか?
明治の世にこのようなインチキ脳科学が存在したということを解っていただけましたでしょうか?
そう、「野球が脳をダメにする」という、インチキ脳科学で野球を批判するという、
この発想こそまさに「野球脳」!
そう、これこそ言うなれば、「ゲーム脳の恐怖」ならぬ「野球脳の恐怖」!
この「野球脳の恐怖」が明治時代に存在していたというわけなんですよー!
……ホント、もうね。
この「野球脳」の話で何がやるせないって言ったらさー……、
こんな明治時代の「野球脳」レベルのインチキ科学が21世紀になった現代においても、
「ゲーム脳」という形でいまだに存在しているということですよね。
俺も最初は「『ゲーム』という新しい娯楽が世に受け入れられるための『通過儀礼』」と言いましたけども、こんなんじゃあまりにレベルが低すぎなのではないでしょうか?
これほどまでに進歩がないなんて、ホントに寂しい気分になってしまいますよ……。
……とか言いつつ俺らゲーム世代もね。
今から何十年後かになって俺らが年老いた暁には、
「ワシらが若い頃はゲームで元気に遊んだものだけど、最近の若いもんは○○みたいな低俗な遊びばかりして……」
とか言ってそうですけどね。
まあこれも日本の伝統芸能ってヤツですかね?